3日後

プリシラアーンを聞いてはケーキをつつき、めそめそする夜を二回過ごした。

 
同期には数人ずつ状況を打ち明けた(他人のとうとつな「彼氏ができました」や「別れました」宣言はどう反応するのが正解かわからなくて得意ではないのだけど、一年ほど彼女たちと関わる中で、ゆるやかな報告がスタンダードなのだと学んだ)。
そのうちの一人から、「今日先輩たちにお昼に連れ出されたとき、きみの彼氏の話になったよ。うまくやっているのかなって。先輩の一人が『とくに何も聞かないから順調なんじゃない?』と言っていて、私はそれに頷いたよ」と言われた。
気をもませてごめんね、と言いつつ、人ってわからんなあと思った。何も聞いていないと順調ということになるんだ。
 
わたしは順調なときも、そうでないときも、恋人の話を他人にすることがあまり好きではない。必要以上にプライベートや動物っぽい部分をさらすのが好きではないことにくわえて、恋話(という響きがとても若くててれる)のしかたを知らない。
20歳になるまで恋人も好きな人もいたことがなくて、高校は芸術系コースにいたので周りも恋より打ちこみたいもがある人たちばかりだった。あるいは、鉛筆を持て、粘土をこねろ、色の置き方を考えろという雰囲気がしらずしらず教室での恋話を封じ込めていただけで、していた人はどこかでしていたのかもしれない。
その後進学した美大にも、それの延長線上の空気は少なからずあった。
恋話をすることがこわい。恋人のいない人の気分を害さず、恋人のいる人のマウントにならず、あれこれ推測されないような恋話のしかたがわからない。
 
先輩たちの情報網は早いので、「報告」をするのはもう少しあと、お祭り騒ぎに乗じることができるくらい元気になってからと決めた。
 
 
週末、引きこもってめそめそすることになるのかなとぼんやり思っていたが、あまりに晴れていて、ちょうどターミナル駅まで出る用事ができたので、そこから特急電車に乗って実家に帰ってしまうことにした。
おかあさんにはすでに電話でことの顛末を話していた(余談だけど、おかあさんと彼は一度電話でバトルを繰り広げたことがあるのだけど、実際に顔を合わせたことはない)。
おかあさんは電話口で泣いた。わたしが最後、彼に反論してしまった理由に、少なからず自分が産んだ障害のある子どもが絡んでいたことが悲しかったようだった。話したことを一瞬後悔したが、なるべく誤解をとくようつとめた。弟は悪くない。弟と弟の障害がわたしの価値観を変えたことは事実だけど、それを悪いことだとわたしは思っていない。
だけど、別れのとき、「やっぱりわたしの人生は、弟に引きずられていくのかも」という考えが全くなかったとは言い切れない。これは、おかあさんには言えない。
 
わたしの実家には母と三人の弟、祖母、伯父がいて、全員が揃うとなかなかの大人数になる。たまたま末弟以外のみんながなんとなく家にいたため、六人でお昼の食卓を囲んだ。
実家は山の中で、春の野の花があちこちに咲いて、うぐいすが鳴いて、ばかみたいにのどかな光であふれていた。お彼岸が雨だというので、早めのお墓まいりにも出かけた。
一人でいるのが嫌で、ついつい家族に甘えてしまったなという話をすると、おかあさんに「気持ちの面で甘えられる人を家族って言うのよ」と諭された。
 
 
彼に甘えた思い出。わたしが仕事で大失敗をした夜、渋谷にハロウィン見物に行くことになっていた。大失敗でべこべこにへこんだわたしは、どたん場で「ごめん、今日人ごみにいけない」と電話をかけた。彼は何も言わずに待ち合わせ場所をわたしの最寄り駅に変更して、ごはんのあとに大きなパフェをごちそうして「話を聞くよ」とだけ言った。わたしが全てを話し終えたあと、至極まっとうな助言とともに、わたしの非を丁寧に分析した。
人ごみにいけなくなったメンタルを受け入れてくれたことも、大きなパフェも本当にうれしかった。助言と分析で頭は整理されて、翌日やることがはっきりした。でも、心の部分はたぶんあんまり満たされていなかった。
心の傷は自分自身で手当てしようとそのときは納得したけれど、「気持ちの面で甘えられる家族」の中で育ったわたしと彼とは、やはり家族になれなかったということなのだろう。
彼にふつうの幸せをあげたいとか思ってしまって、それでいてわたしの育った家庭もたぶん全然ふつうではなくて、叶わない夢をみていた感と、なんだか自由でのびやかなわくわくと。