半月後

引越しをしようかなと考えていた。

思い出を土地ごと捨て去りたいとかでは決してなくて、必要以上に風通しのいいわたしの部屋はこの冬凍えるような寒さで、もう一度越冬できる自信がなかった。家賃相場が下がる季節になったら絶対に引っ越すぞと、毎晩ホットカーペットに張り付きながら決心を新たにしていた。
 
次に住む部屋はお風呂とトイレ別、と決めていた。18歳で実家を出てからずっとユニットバスの部屋を選んでいる。
物件を探していて、はたと彼がお風呂とトイレが同じ空間にある我が家をあまり好きではなかったことを思い出した。わたし自身はユニットバスでも全然平気ではないか。そんなことに気づいて、もう一段階自由になってしまった。
前々回に書いた例の映像作品が好きだったあまり、なるべく同じ町内に住み続けたいなと思ったけど、考えたらそこにこだわる必要ももうなくなっている。それでもやはり、最寄駅は変えずに家探しをすることにした。いま住んでいる場所がさらに好きになったのは間違いなく彼のあの映像があったからだけど、それに切り替えられた線路の上を、わたしはまだひとりで歩いている。
そして、それを悪くないと思っているからだ。
 
 
ここ数日になって、彼についての細かなことを思い出す時間が増えた。話していたこと、好きだった本、匂いとか歩き方、声なども。よくデートしていた街の景色から触発されて思い出すのではなくて、どちらかというと自分の記憶から泡が立ち上るみたいにふとよみがえる。炭酸みたいに、しゅわしゅわと思い出してそのうちすっきり消えてくれたらいいのにな。いまはもう、忘れて楽になりたい気持ちのほうがずっと強い。
 
これは付き合っている(そして、なんとなく別れを予見している)うちからずっと思っていることだけど、くれぐれもわたしと関係のないところで、思いきり幸せになっていてほしい。さみしい人だということはよくよく知っているから。
彼をさみしくさせたのは幼いころに家を出て行ってしまったお母さんや、早くに結婚して以降生家を省みることのないお兄さんや、もうすぐ生まれる初孫に夢中なお父さんや、手ひどい裏切りをした元彼女などなのだろうけど、その全てをずっと抱えている必要なんてないんだよと言ってあげればよかった。言えないかわりに、わたしが全部かき消してあげたいななんて考えていたけど、いつだって彼の中にいるお母さんやお兄さんやお父さんや元彼女の影に怯えていたし、出会って4年足らずの他人にそんなのむずかしかったよね。
 
誰も悪くなくて、誰も誰をも許せていなくて、そんな輪の中に長くいられるはずがない。
だから早く忘れてしまいたいな、すべて!